貝塚クラブ 鬼マネの日記

貝塚クラブは千葉市若葉区のママさんバレーのチームです。 鬼マネは貝塚クラブに入部してもう25年くらい経ちまして、いつの間にかチーム最古参になっておりました。 ブログにはバレー以外に、鬼マネの日々のことや、千葉市の情報など、色んなことをツラツラ書いております。

家庭婦人連盟所属。

千葉市(1ブロック)のチームです。

ブログにはバレー以外に、千葉市の情報など、色んなことをツラツラ書いております。


3月8日

3月8日。
奇しくも亜門が高校を卒業したその日、私には忘れられない日となりました。
この写真を撮ってた同じ瞬間に、彼女の卒業式が始まっていたんじゃないかと思います。
私の人生のほとんどを一緒に過ごしてきたであろう人が、この世を去りました。
享年51歳。
誕生日も私から遅れること9日。
保育園の頃から一緒でした。

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彼女の身体を蝕む病のことを知ったのは、未愛の結婚式の招待状を渡しに行った時でした。
未愛が生まれてからずっと、自分の子供のように可愛がってくれたので、当然結婚式にも出席してもらおうと、それは私も未愛も同じ気持ちでした。
今でもなぜあの時、彼女の病気に気がついたのかわかりません。
誰にも知らせずに逝こうとしてる彼女を、神様が止めようとしたのかもしれないです。
その日の数か月前、別の友人のお父さんが亡くなり、そのお葬式で久しぶりに会っていました。
その時会った友人は誰も彼女の異変に気付きませんでした。
私もやけに黒く染めてた髪と、やけに細くなってた腕を見て、
「なんでそんな黒く染めたの?なんでそんなに痩せたの?」
とは聞きました。
その時、彼女は必死で誤魔化していたんだと後で話してました。
そして、私には隠しきれないかもしれないと、そう思ってたとも言ってました。
なぜなら、私は髪の毛に関してはプロだから。
抗がん剤で抜けた髪を隠すためにかぶっていたウィッグだと、私は気付くだろうと。
その通りになりました。

「何の病気?」
そう聞いた時、まさかと思っていたと思います。
ウィッグに痩せた腕。
つなげたくない現実がつながった瞬間でした。
がんという単語が彼女の口から出た時、いやだと言った気がします。
嘘だと言った気もします。
日々の忙しさで彼女に会わないで居たことを後悔しました。
もっと早く会っていれば、何か違ったかもしれない。
頭の中でぐるぐるしてて、隣に亜門がいなければ、もっと取り乱していたんじゃないかと思います。
でも彼女はつづけて言いました。
「亜咲子、絶対に誰にも言わないで。お願いだから、誰にも言わないで。治すから。頑張って治すから、誰にも言っちゃだめだ。」
治すというその言葉を、私はバカみたいに信じようと思いました。
多分彼女は医者の言葉を間違えて聞いてて、治療すれば治るんだと、そう信じようと思ってしまいました。
でも同時に、彼女の病気が何を意味するのかもわかっていました。
だから、彼女が治すと言う以上、それが彼女の気持ちの支えになるのかもしれないのなら、言う通り黙っていることで、その時が来てみんなに責められることになったとしても構わないと、覚悟をしました。

未愛の結婚式には行く、行きたいと、彼女は言いました。
結局2日前になって、新しく始めた治療のせいで、体調があまり良くなくて、行けそうにないと電話がありました。
結婚式が終わって、その時の写真と動画を見せてやろうと思い、未愛を連れて彼女に会いに行きました。
未愛にも結婚式が終わるまでは黙っていました。
終わってから、彼女の病気のことを話しました。
彼女も未愛には病気のことを隠す気はなかったのか、ウィッグではなく、バンダナを巻いていました。
未愛は最後までいつも通りに彼女と笑って話し、でも部屋を出てエレベーターに乗った途端、号泣していました。
最後まで我慢してくれて、それは良く頑張ってくれたなと、思ってしまいました。

それから1年2カ月。
短いメールのやり取りを続けました。
彼女はアナログな人だったので、スマホを持っていませんでしたから、メールでしかやり取りができなくて、メールを送っても返事がないと、気が気じゃなかったです。
彼女は私がそうなることをわかってたのか、いつもすぐに返事をくれていました。
でも、何度会おうと言っても、会ってはくれませんでした。
弱っている姿を見せたくなかったんだと思います。
そういう人でした。
最後のやり取りは3月3日でした。
何回かのやり取りで、私が体調良くないんじゃないのか?と聞くと、「また今度」と返事が来ました。
彼女は最後まで嘘はつきませんでした。
入院してるのにしてないとはいわなかったし、具合が悪くなってても、悪いともいわなかったけど、嘘をついて元気だとは言いませんでした。
でも最後のメールは嘘でした。
また今度はありませんでしたから。

亜門の卒業式は、私の子育て卒業式でもあると思ってました。
とはいえ、男子校の卒業式で感動なんかするわけがないと、のんきに構えて会場に入りました。
なのに、始まるやいなや、なんだかやけに感動して、結局グズグズ泣いてしまったのは、実は彼女がその時間にそんなことになっていたせいかもしれないと、今は思ったりもしています。
卒業式の午後、3時過ぎかそのくらいに、見知らぬ番号から電話がかかってきました。
電話の声は聞き覚えのあるようなないような男性の声で、その声の主が、彼女のだんなさんだとわかった瞬間、私はもう泣き出していたと思います。
その後は何を言ったか良く覚えてません。

彼女はうちからそう遠くない会場に運ばれたというので、すぐに会いに行きました。
見てしまったら、彼女がもう目を開けてはくれないとわかることになるので、本当に嫌だったのだけど。
逆さまの彼女の顔を見た瞬間、彼女がもう息をしていないことも、魂もないことがわかりました。
それは今までに何度か人の死を見て、亡くなった人というのが『そうなる』と、わかっていたからです。
彼女は違うんじゃないか?と思いたかったけれど、残念ながら同じでした。
もう目を開けることもないんだと見た瞬間、そうわかったと思います。

ずっと見てたら起きるんじゃないかと思いました。
多分まだ亡くなったばかりで、少しだけ魂がそこにあったからじゃないかと思います。
「うっそー!」
と、ドッキリカメラみたいに、起き上がるんじゃないかと本気で思いました。
そうして欲しかった。ほんとにそうして欲しかったです。

遺影は未愛の保育園の卒園式の日に、私の家族で撮った集合写真が使われました。
20年も前の写真ですが、写真が嫌いだった彼女は、遺影に使えるような写真が無かったそうです。
だから彼女の隣には私の別れただんなが立ってるし、未愛もまだ子供で、亜門は影も形もありません。
当時出来上がってきた写真を見て、彼女の妹は、
「なんで姉ちゃんが写ってるのよ。家族写真でしょ?」
と、爆笑したそうです。
でも当時彼女は私たち家族に近くて、未愛の行事にはほとんど来てましたから、何の違和感もなかったです。
写真館で撮った写真なので、遺影用に加工するのもしやすかったそうです。
そんなために撮った写真じゃなかったのに。

お通夜はともかく、お葬式でいくつかの別れの儀式をするのは知ってましたから、それを見ることができるかどうかの自信が全くありませんでしたし、嫌だったので、妹さんにお通夜の夜、明日は最後までは居たくないと伝えました。
返って来た返事には、

「まゆちゃんと昔話をしていると、どんな話しをするのも、どこに行くのも、亜咲子!亜咲子!と本当に仲がいいんだなぁ~と話しを聞いてました。辛いのは本当にわかります。でも、最後まで隣に居て上げて下さい。宜しくお願いします。」

と。
どんなに辛くても、耐えられないかもしれなくても、それが私の役目かもしれないと思いました。

大事な人を亡くした経験がある人は、わかると思います。
どんなに悲しくても、辛くても、だからって悲しい、辛いとは言ってられなくて、笑うことはできるし、仕事もできるし、おなかもすくし。
日常は今まで通りにあって、やらなきゃいけないことも普通にあって。
それがしんどいなあと思うけれど、生き残ってる人は、そういうの抱えて生きていくのが生きてる人の役目なんだろうなあって。

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未愛の保育園の卒園式の時、列席した親たちに、ひとことづつ園児に送る言葉をお願いしますって言われて、子供たちに言いました。
「このおばちゃんとは保育園からのおともだちなんだよー?」
って。
みんな「えー!?」って、驚いてたっけなー。

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こんな写真載せたら怒るだろうな~。(笑)
先に死ぬからぞ、ざまみろ。勝まゆみ!