貝塚クラブ 鬼マネの日記

貝塚クラブは千葉市若葉区のママさんバレーのチームです。 鬼マネは貝塚クラブに入部してもう25年くらい経ちまして、いつの間にかチーム最古参になっておりました。 ブログにはバレー以外に、鬼マネの日々のことや、千葉市の情報など、色んなことをツラツラ書いております。

家庭婦人連盟所属。

千葉市(1ブロック)のチームです。

ブログにはバレー以外に、千葉市の情報など、色んなことをツラツラ書いております。


恩師のお墓参り

中学の同級生から、中学時代のバレー部の顧問の高澤茂先生が亡くなったことを知らせるLINEが来ました。
生誕50周年記念大同窓会以降、中学の同級生たちとは、結構な頻度で同窓会飲み会を開くようになり、テクノロジーの進化のおかげで、LINEという便利なツールでまめに連絡取り合えるようになりました。
今回の高澤先生が亡くなったことも、同窓会やったりしてなければ、もっと後まで知らないままだったかもしれません。
(中学時代はくるくる天然パーマだったのに、今はブルース・ウィルスか?なスキンヘッドに変貌を遂げたともから教えてもらいました。ともサンキュー。)

すぐに、更にまめに連絡取ってる生中バレー部OGなおっちゃんと洋子にお知らせ。
お墓参りに行く事になりました。

高澤先生は近親者だけで葬儀を済ませていて、すでに納骨されておりました。
先生らしいです。
高澤先生?と、ママさんバレー歴それなりな人は思うかもです。
市民大会の開会式に来てましたので、先生。
鬼マネも、中学以来で再会したのは、市民大会でした。

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おっちゃんと洋子と鬼マネ3人揃うと、お墓参りどころか、ずーっとしゃべってて、お墓に眠ってる高澤先生も呆れてたと思いますが、まあ許してもらいましょう、久しぶりだったから盛り上がってしまったのさ。(笑)

近々、鬼マネひとりで行こうと思います。
高澤先生とは、ゆっくり話しがしたかったから。

中学時代、鬼マネは補欠にもなれないヘボ部員でした。
1年から3年までで総勢70人以上いたマンモスチームだったのでしょうがない。
ただ鬼マネは、高澤先生は忘れられない恩師でございました。
へたっぴいだった鬼マネが、今でもバレーを続けてるのは、中学時代があるからだと思っております。

選手ではなく、マネージャー志望だったというお話しは、何度かここでも書いたのではないかと思いますが、バレー部に入って、かっこいい先輩を見て、普通はアタッカーだったり、セッターだったりするものなのでしょうが、鬼マネはベンチで監督の隣に座ってスコアブックをつけるマネージャーにひと目ぼれしました。
3年生になって、メンバーが発表される時まで、鬼マネはずっとマネージャーやりたいと公言して、周りもそうなるもんだの雰囲気満載だったのでございます。
でも、発表されたのは、まったく違う同級生。
泣きましたよ、そりゃあ。
で、高澤先生のとこに行きました。
「なんで私じゃないんですか?」
その問いに先生は、
「お前はマネージャーやりたいと言ってたけど、そのためにやるべきことをやらなかった。でも○○はやったんだ。」
何をやったかは教えてくれませんでした。
号泣する鬼マネを周りはなぐさめてくれたし、抗議もしてくれたり、マネになった子を認めないみたいな騒動もありましたけど、鬼マネは悔しいというより、後悔の方が大きかった。
高澤先生の言う、「やるべきこと」を確かにやらなかったことを自分が一番わかってたからです。

それ以来、できるできないはともかく、その時その時、自分の中で意識するようになったんですね。
「やってるか?やらないで後悔しないか?」
って。
もう二度とあんな思いはしたくないと、強烈に残ったし、それは高澤先生のおかげだなあと思ってるからです。
1年からずーっとマネージャーやりたいと騒いでたし、それを先生も知ってたはずですから、情けかけて鬼マネにやらせるのは簡単だったはずだし、大抜擢みたいな人選をわざわざしなくても良かったと思うのです。
鬼マネがあの時、先生大嫌いになる可能性の方が高かったはずなのに、そうならなかったのは、先生が簡単に決めたことではなかったからなんじゃないかと思ってたりします。

高澤先生が、どう考えてあの人選をしたかは、永遠にわからなくなりましたけど、あのおかげで鬼マネは中学生にして挫折を経験したわけで、うまくいくとは限らないってことを身をもって知ったわけです。
感謝です。ほんとに。

再会した市民大会で、一緒にどっかのチームの試合見て、
「次の1点取ったほうが勝つよ。」
と言って、ほんとにそのチームが勝って。
あの時の高澤先生のドヤ顔、忘れないです。
教わってた時は、練習でも先生のそばに近付くことなかったので、楽しい思い出になってます。
高澤先生、ありがとうございました。(享年88歳でした。)